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もしも47歳のおじさんが川中島の戦いに巻き込まれたら 〜上杉軍と一緒に行動してみた

✍️ 安斎 高志

筆者は想像力がたくましい。ゆえに、かなりの頻度でタイムリープの妄想をしてしまう。なかでも一番多いのは、戦(いくさ)に巻き込まれるパターンだ。兵に囲まれ、上手いこと言って味方のふりをして一緒に行軍するという、どこかで見たようなアレ。

頭の中ではちゃんとシミュレーション済みだ。戦闘が始まったドサクサに紛れて全力で逃げ出すことにしている。ただ、筆者は47歳の平均的な体力しか持ち合わせていない。具体的に想像すればするほど不安になる。ちゃんと逃げ切れるだろうか。

もしものことを考えれば、一度きちんと予行演習しておいた方がいいだろう。

私は激戦として知られる第4次川中島の戦いで、上杉軍の只中にタイムリープすることにした。この戦を乗り切れるなら、他の戦もどうにかなるはずだ。

目標は二つ。一つ目は上杉軍が陣を構えた妻女山から、決戦の場である八幡原までを3時間以内で移動すること。二つ目は戦闘開始後、逃げ出す体力を残しておくこと。

3時間以内というのは、深夜に山を降り、明け方に戦闘が始まったという記録をもとに、ちょっと厳しめに算出した。私は自分に厳しい。

ある晴れた朝、私は妻女山に向かった。

筆者のスペック

本稿を楽しむためには、筆者のスペックを知る必要があるだろう。恥ずかしながら簡単に記す。

慢性的に膝痛、ふくらはぎ痛、腰痛があり、少し負荷をかけてランニングをすると、どこかしらが痛くなる。昨年、立て続けにハーフマラソン大会に申し込むも、練習中に上記のどれかしらが順番に発生し、3回とも出場を取りやめた。ほぼまともに練習できないまま2月に東京・葛飾区で開かれたハーフマラソン大会に出場。なんとか完走はしたものの、タイムは2時間47分、40代の出場者95人中94位という結果だった。

初心者ランナーの少し手前、「ランしたいナー」くらいのレベルだと考えていただいて差し支えない。運動量を基準としておじさんを2種に分けるなら、「運動不足の人」に分類される。

↓ブービーと知らずにガッツポーズでゴールする筆者

第4次川中島の戦いの概略

筆者がタイムリープするのは、永禄4(1561)年9月9日夜の妻女山。そこまでの上杉軍と武田軍の動きを簡単に記す。

8月16日 上杉軍1万1千人、妻女山に布陣

8月24日 武田軍2万人、茶臼山に布陣

(睨み合い続く)

8月29日 武田軍、茶臼山から海津城(松代城)に入る

(睨み合い続く)

9月9日夜 武田軍が夜襲をかけるべく兵糧(食事)の用意をする。上杉軍は炊煙が立ち上るのを見て動きを察知、八幡原へ向かう。

9月9日夜の動きをもう少し詳しく解説する。

武田軍は二手に分かれ、夜のうちにA班が上杉軍のいる妻女山を襲い、押し出された先の八幡原でB班が迎え打ち、挟み討ちにする、という目論見だった。啄木鳥(きつつき)戦法として知られる。

しかし、上杉軍は武田軍の動きに気づき、武田軍A班に気づかれないよう山を降りる。向かった先は、敵の大将・信玄率いるB班がいる八幡原だ。

朝もやが消えると信玄の前には、まだいるはずのない上杉軍が現れるというストーリー。ここから激闘が始まる。そして、私は全力で逃げ出す。

©︎Google

参考:「川中島の戦い総合サイト」https://kawanakajima.nagano.jp/ 

スタート地点:妻女山を出発

スタートを前に、妻女山から海津城(松代城)を望む。妻女山には現在、展望台がある。しかし、私は使わない。できるだけ当時の条件に合わせたいからだ。リアリティは大事である。展望台の下から海津城を見たのが下の写真。

現在は城の周りにも多くの建物があり、さらに木が邪魔になっていて「なんとなくあの辺り」としかわからなかった。ただ、煙がいつもより多く立ち昇っていたら気づく距離ではある。ちなみに妻女山の山頂は標高411m、海津城の標高は385m。意外と高低差がない。

午前9時、私は上杉軍とともに山を駆け降り始めた。

当時を忠実に再現するため、夜中に道のないところを駆け降りようかと迷ったが、かなり勾配が急なため、やはり舗装された道路を明るくなってから走ることにした。

リアリティを追求しすぎて怪我をしたら、企画倒れもはなはだしい。そして、この原稿の締め切りも近い。企画の立て直しはつらい。

3.5km地点:雨宮の渡し

妻女山を降りると、ほどなく千曲川が見えてくる。木立の向こう側にちらりと川が見える。八幡原へ行くには千曲川を渡らなければならない。

当時、この近くには「雨宮の渡し」という浅瀬があり、上杉軍はそこから北へ向かったとされる。しかし現在、「雨宮の渡し」があった場所は川から約1kmも離れている。千曲川の流れが長年かけて北に移動したためだ。

約20分走って、渡しの跡地である「雨宮の渡し公園」にたどり着く。川はまったく見えず、名残もない。住宅地の真ん中だ。川中島の戦いを解説する案内板がなければ、かつてここから上杉軍が千曲川を渡ったなどと想像できる人はいないだろう。

少しだけ休憩を取り、私は1万1千人の一人として先を急いだ。もちろん、物陰に敵兵や野武士がいないか目を光らせながらである。リアリティは大事である。

リアルに再現するため、川の中を歩いて渡ってもいいと思っていたが、上の写真のとおり、なかなかの大河だったのでやめた。リアリティを追求しすぎてここで倒れるわけにはいかない。この原稿の締め切りが近いのだ。

9km地点:ぬかるむ道で膝に異変

「雨宮の渡し」の代わりに「篠ノ井橋」という大きな橋を渡る。このへんから八幡原に至る道程に関しては、正確なところがわからない。

近くには北国街道が走っていたが、敵に見つからぬように移動していたのだからきっと大きな街道は使わないだろう。

当時、このあたりは湿地や水田ばかりだったとされる。かなり歩きづらい道を進んだに違いない。もちろん、私もぬかるんだ場所を走る。気持ちのうえで。リアリティは大事だ。

それにしてもロードサイドの風景は走っても走っても変わらない。ぬかるんだ泥地を想像しながら走るのも飽きてきたので、私は上官と話すことにした。当時の兵士も会話をすることで気を紛らわせたに違いない。リアリティは大事だ。

上官「おぬし、生まれはどこだ」

私「善光寺村のもう少し東の方でございます」

上官「おぉ。わしもあのあたりには2度ほど行ったことがある。あのへんはいいところだな。子はいるのか」

私「はい。15と13。上が女で下が男でございます」

上官「そうか。まだまだ死ねぬな」

私「しかし、お館様のためならどんなことでもやり遂げる覚悟でございます」

上官「命を粗末にしてはいかんぞ。命さえあれば、また何かしらお役に立てる」

私「へえ。ありがたいお言葉」

育った環境の違う知らないおじさんとはなかなか話が弾まない。そんなことを考えながら走っていたら、膝の異変に気づくのが遅くなった。

ちょっとした違和感が、あっという間に痛みに変わる。敵兵に目を光らせながら走ったのがよくなかったか。ぬかるんだ道のつもりで走ったのがよくなかったか。

ごまかしながら走っても膝の痛みは増すばかり。スタートから10km手前で、私は耐えかねてとうとう立ち止まってしまった。

いつの間にか戦地の真っ只中へ

上官に「構わず、先へ行ってください」と伝え、私は歩き始めた。どうせ、話も弾まないし。後方の兵もどんどん追い越していく。

妻女山を出てから1時間30分ほどが経った。Google MAPを見ると、八幡原にある古戦場公園まではあと5kmほど。普通に歩けば、3時間以内にはたどり着けそうだ。ただ、この時点で走れないのだから、5km行った先でドサクサに紛れて逃げ出すのはなかなかに難しい。敗北感に包まれる。

しかし、ここでやめるわけにはいかない。原稿の締め切りも近い。別企画を立て直す時間がない。

国道から離れ、のどかな田園をとぼとぼ歩く。はたから見ればただの散歩である。ほどなくサッカーJ3・AC長野パルセイロのホームスタジアムである長野Uスタジアムが見えてきた。

このスタジアムの収容人数は1万5千人。一度だけ満員になった試合を見に行ったことがあるが、その迫力はなかなかのものだった。今、私と行動をともにする上杉軍は1万1千人。対する武田軍は2万。なんとなく規模感が想像でき、私は身震いをした。あのスタジアムがあふれるほどの兵士が戦っているなかで、脚を引きずった私が逃げるのは無理だ。

そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか史跡「胴合橋」のすぐ近くを歩いていることに気づいた。知らずに激戦の真っ只中を歩いていたのである。

胴合橋には、川中島の戦いで討ち取られた武田軍の重臣・山本勘助の首と胴体をこの場所で家臣が繋げたという伝説が残っていて、今も碑が建っているという。だが、私は見に行かなかった。なぜかというと、疲れていたからである。

↓胴合橋近くの風景。あと数十mの地点

電動自転車サイコー!

痛む脚を引きずりながら、どうにか私は川中島古戦場公園にたどり着くことができた。時刻は午前11時20分。所要時間は2時間20分で、目標の3時間は余裕でクリアした。しかし、ここから逃げる体力(脚力)は残っていない。完全にペース配分をミスした。前半をもっとゆっくり走って、後半に余力を残しておけばよかった。

古戦場公園では、幼な子が自転車の練習をしていたり、老夫婦が散歩をしていたり、駐車場ではサラリーマンが昼寝したりしていて、思わず「平和はいいなあ」とつぶやいた。

しかし、のどかな気持ちでいられるのもほんのわずかだった。私はここから約6km離れた妻女山に車を置いてきたことに気づいた。しかも2時間後にはリモートミーティングが組まれている。体力も時間もない。

「もう、タクシーを呼ぼうか…?」

もともとは逃げる体力を残して終えるはずだったから、かなりの敗北感だ。それどころか、タクシーで山へ向かう…!? さんざんリアリティだとか言っておきながら、最後はタクシーか!

唇を噛み締め逡巡する私の目に、まさかの光景が映る。

こんなところに、なんとレンタル電動自転車がある。

タクシーの背徳感を100とすれば、自転車の背徳感は50くらいで済む。たとえ電動とはいえ、これは「自転車」である。しかも値段はタクシーの10分の1だ。

私は速攻でアプリをダウンロードし、手続きを済ませた。

勢いよく妻女山に向かって漕ぎ出す。「当時を再現」だとか「リアリティ」だとか、そんな言葉は戦場に置いてきた。ミーティングに遅れるわけにはいかない。

重い脚を引きずりながら、もたもたと歩いていたおじさんにとって、電動自転車は速すぎて心地よすぎた。思わずつぶやくあの一節。

「疾(はや)きこと風のごとし」

妻女山で電動自転車を車に積み込み、川中島古戦場公園に返却したところで私の戦いは終わった。

もう少しトレーニングをしよう。膝を壊さない程度に。あと、ペース配分大事。それより何より、平和が一番。そして、電動自転車サイコー。現場からは以上です。

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✍️書いた人

安斎 高志(あんざい・たかし)

コピーライター、編集者、映像ディレクター。合同会社案在企画室CEO(ちょっとイイこというおじさん)。二児の父。もしもに関する想像力のたくましさは極めつけの折り紙つき、かつ保証つきの太鼓判つき。