Moshipedia
「いやあ、どうもどうも、どなたのお孫さんやろ」
車椅子の向きを変えてこちらに振り返ったタロさんは、はっきりした口調で笑顔を見せた。
老人ホームに入っているということで心配したが、身体は痩せているものの、ボケているという様子もない。昔は随分モテただろうことは、自然とこちらを気遣う振る舞いからも分かる。
「タロさん、変わってない……」
ばあちゃん幽霊がぽつりとつぶやいた。
どうせタロさんに姿は見えないのだから、もっと近づけばいいのに、わたしの後ろでもぞもぞしながらばあちゃん幽霊は落ち着きがなさそうだった。
「大澤明美の孫なんですが、祖母のこと、覚えてらっしゃいますでしょうか……?」
「明美さんって、あの明美さん? 絵の教室のときの?」
タロさんは目を丸くしてわたしを見た。その目線の先には、幽霊の明美さんがいるのだが。
ばあちゃん幽霊は、頷きながら目を潤ませている。
「いやあ、懐かしいなあ。えーお孫さんか。どっから来はったん? もしかして長野? えーそれはそれはよう来たなあ。まあまあ、珈琲飲んで。これも食べて。」
タロさんは、嬉しそうにベラベラと喋った。わたしは遠慮なく珈琲をすすり、チョコをかじる。
ばあちゃん幽霊を見ると、いつの間にタロさんのベッドに腰掛けて、車椅子のタロさんと並ぶ形になるように、タロさんのベッドに腰掛けていた。
さて。
わたしは、この先のことを考えていなかった。
これは、ばあちゃん幽霊の成仏のための旅だ。タロさんに会った瞬間、パーッとばあちゃん幽霊に後光が差し、満ち足りた顔をしたばあちゃん幽霊がふわあっと消えていく、というのを想像していたのだ。
今のところ、消える気配はなし。
「明美さんは、お元気ですか?」
タロさんは、珈琲を飲みながらわたしに問うた。
隣にいるもう死んでいる明美は、「うん、元気!」満面の笑みで答えた。
わたしは亡くなっていることを正直に伝えるか迷った挙句、
「元気にしてますよ」と、タロさんの隣で頬を赤らませているばあちゃん幽霊を見ながら答えた。
生きていると言ってしまったからには、訪ねてきた理由をでっちあげなくてはいけない。
「今、お祖母ちゃんがこれまで出会って印象に残った人を訪ねて行くっていうのを自分で企画?みたいなことやってて。あ、YouTubeとかじゃないので動画とかは撮らないんですけど、小説、小説書いてるんですよ。会いに行って、それを基に小説に書こうとしてて、はい。自費出版なんですけど。」
適当にまくしたてる私の話をニコニコ聞きながら、
タロさんは、ほお、とか、へえ、とか、そのたびに相槌を打ってくれた。
ばあちゃん幽霊は、わたしの必死の嘘には興味を示さず、相槌を打つタロさんの横顔を、じーっとながめている。
「印象残ってるって、僕のこと、明美さんはなんて言うてたの?」
タロさんは、ちょっと試すような口調でわたしに問うた。
ばあちゃん幽霊は、口をとんがらせてわたしの方を見る。何の目だそれは。
「えーっと……仮に自分が死んでも、忘れられない人、って言ってましたかね、たしか」
はっはー、と、タロさんは照れたように笑ってぼりぼり頭を掻いた。
部屋の壁に貼られた絵の数々が目に入った。ばあちゃん幽霊はその絵を恨めしそうに見つめている。誰かの似顔絵らしいその絵たちは、ほとんどが女性の顔だった。
わたしの目線が壁に向いていることに気づいたタロさんは、「ここいると暇やからね」と、ここで働いている人とか、入所している人、遊びに来てくれた人を描いて過ごすのだと言った。
「あなたも描きましょか?」
タロさんは、こちらの返事を待たずにスケッチブックを取り出そうと手を伸ばす。
「わたしじゃなくって、大澤明美さんの絵、描いてもらってもいいですか?」
咄嗟に答えた。
「明美さん、あの頃の明美さんか……」
タロさんは思い出すように遠くを見て何度かつぶやきながら、ベッドの脇から色鉛筆のケースを取り出した。
「明美さんに会った頃は、あなたはまだ産まれてなかったんちがうかな」
わたしを見つめるタロさんの顔は、わたしの顔から、当時の明美の手がかりを探そうとしているようだった。
「わたしの顔、忘れてるんじゃないの」
覚えていて欲しいの裏返しの声で、ばあちゃん幽霊はぼそっと言った。
人間っていうのは、恋をすると中学生だろうが、年齢を重ねようが、幽霊になろうが、関係ないんだな。
「そんなことないよ、覚えますわい」
タロさんは、なぜかタイミングよく返答した。ばあちゃん幽霊のことは見えていないはずだ。
ばあちゃん幽霊は、色鉛筆をサラサラ走らせるタロさんの傍に寄り、描かれる自分の似顔絵をじっと見つめている。どういう感情なのか、表情からは読み取れない。
そこからしばらくわたしたちは話さず、色鉛筆がシュッシュッ、と紙にこすれる小さな音だけが部屋に響いた。ばあちゃん幽霊は、出来上がっていく似顔絵を見守っている。
わたしはなんだかたまらなくなって
「実は、大澤明美は、半年前に亡くなってて」
つい、打ち明けてしまった。
ピンクの色鉛筆で薄く頬を色づけていたタロさんの手が止まった。
しばらくわたしの顔を見て、そしてまた色鉛筆を走らせながら
「ほな、もうすぐ会えるやんナア」
タロさんは、呟いた。
ずっと絵をながめていたばあちゃん幽霊は、タロさんの傍で、その横顔をまじまじと見た。
口を開いて何かタロさんに言ったようだが、わたしには聞き取れなかった。
「よおし、でけた」
スケッチブックに完成したのは、はにかんだように笑う女性の顔。
肩まで伸びた髪が風にそよいで、好きな誰かと話しているとき、相手の冗談に屈託なく笑った顔だろうな、と想像させる。50歳当時の大澤明美が、そこに生きているようだった。
「ばあちゃん、喜ぶと思います」
わたしは、タロさんから絵を受け取った。
「喜びすぎて、ここに来てるかも」
気づくと、傍にいたはずのばあちゃん幽霊は、いなくなっていた。
「明美さんの幽霊やったら遊びに来て欲しいわ。そない言うといて。」
タロさんは冗談めかして言って、
うちのばあちゃんやったら来かねないですね~と答えて笑った。さっきまでいたんですけどね、とは言わなかった。
帰りの車はひとりで、たまに車からはみ出す幽霊が隣にいた時よりも随分長いドライブに感じた。
ひとりで帰り、ひとりで玄関を開け、ひとり、カップ麺を食べる。
ばあちゃん幽霊と過ごした時間は、めんどくさかったけども、なんだかんだ楽しかったな、と感傷的になりながら、ひとり、Netflixのオリジナルドラマを観るともなくぼんやりと眺めた。
「猫でも飼うか」
ひとり呟くと
「猫より犬が良い」
どこから声がした。
振り返ると、ばあちゃん幽霊がいた。
「ここは感傷的で終わるところやろ。成仏しろや。」
「明日、明日するから」
“もしも、墓場でばったり出会った幽霊に、孫と勘違いされて家に居座られ、成仏の手伝いをして昔好意を寄せていたお爺さんに会いに行って、似顔絵まで描いてもらってさすがに成仏する流れで終わりそうなところ、また自分の家に幽霊が現れて、ダイエットを始められない人の典型的な言い訳のようにまだ居座ろうとしたら”
あなたはどうしますか?
もしもが気になる、田所恵より。
✍️書いた人
宮前じゃばら
作家・脚本家。長野県松本市在住。ザラザラしたものをつるつるに磨くことと、火焔型土器を眺めるのが好き。