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♨[短編小説]もしもが気になる田所さん『露天風呂と田所さん』

✍️ 宮前じゃばら

もしも度:♨♨♨♨

近所のスーパーでアボカドをひとつひとつ握りながらその柔らかさを確認していた田所恵。

唐突に、あの感覚が襲ってきた。

“温泉に行きてえ”

こうなったら止められない田所恵。それほど柔らかくないアボカドをひとつ握りしめたまま、目にもとまらぬ速さでレジを通過しポイントカードでアボカドひとつ158円を清算し、一目散に車へ向かう。
もしものときに困らないようにと、田所恵の車にはタオルと石鹸が常備されている。

“温泉、温泉……♨♨♨”

頭の中は湯気で支配され、カーチェイスよろしく車を走らせること、15分。

いつもの温泉に着いた。

暖簾をくぐり抜けると、小上がりスペースには、思い思いにくつろぐ老若男女の姿。
牛乳を飲んでいる初老の男性、いびきをかいて寝ころぶ中年女性。うむ。やはりここは桃源郷だ。

田所恵は、受付の女性に入場券を示し、いそいそと女湯へ向かう。

脱衣所で、すぽぽぽーん、と3秒ほどで服を脱いだ。温泉では、できるだけ小学生のように一気に服を脱ぐのが醍醐味だ。服はまるめてロッカーに押し込む。

さあ、まずはかけ湯、そして身体を洗うところから。


もしも、「お風呂で身体を洗うとき、一番最初にどこから洗いますか?」という、誰も得をすることがないあの質問がきた時に答えるバリエーションを増やすため、毎回洗い始める場所を変えて挑む田所恵。

今日は右ひかがみから洗うことにした。ご存知のない方のために補足すると、“ひかがみ”とは、ひざの後ろのくぼんでいるところを言う。

“わたしは、そうですねえ…右ひかがみから洗います”

何度か台詞を口で転がしながら、うん、悪くない回答だな、と笑みを浮かべる田所恵。

しかし、オーソドックスな人体の部位はもうだいたい試してしまったので、そろそろ洗い始める部位が尽きてしまいそうだ。東洋医学の本でも買って、ツボの名称でも勉強するか。


“平日は合谷(ごうこく)から洗いますが、土日は湧泉(ゆうせん)ですね” とか、なかなかしぶい回答だろう。

右ひかがみから始めたボディウォッシュも無事終わり、まずは内湯に全身サブンとつかる。

頭も湯船に沈めて、文字通り田所恵の全身を湯の中に沈め、時を数える。

10秒、20秒、30秒、60秒、90秒・・・・180秒、よし、3分。顔を真っ赤にした田所恵が、ぶはあっと湯船から顔を出す。隣のご婦人が、ひゃっと小さく声を上げた。

(3分って、短いようで長いんだね。日清。)田所恵は、カップラーメンの気分を味わっていたのだった。

後は粉末スープを入れて混ぜるだけ、に仕上がった田所恵は、のっしのっしと念願の露天風呂へ向かった。田所恵は、温泉が好き、というより、正確に言えば、無条件で裸体が許される空間が好きなのである。ガラガラとガラス戸を開けて一歩外に出る。寒い。が、日差しはある。はい、この解放感。屋外、そして、一糸まとわぬ生まれたままの姿のわたくし。バンザイ!

ここの温泉は、露天風呂が広いから好きなのだ。風呂につかり、周りを眺める。太陽の下、周りには、様々な裸体がある。いろんな肉付きだ。身体が薄い人もいれば、でっぷり肉付きの良い人もいる。肌の質感や色、毛の生え方や身体のライン、一つとして同じものはない。キャリアウーマンだろうが学生だろうが、不倫していようが障害者手帳を持っていようが自己破産していようが、ここでは皆、地獄谷の猿である。

“もしも、わたしがこの温泉のオーナーだったら”と、田所恵は想像する。

まず、この裸体のオアシスの敷地を拡張するに違いない。手始めに、露天風呂内にフードコートを作ろう。裸体で食べる焼きそば、お好み焼き。ソースをこぼしたって気にしない。汚れたら風呂に入ればいいのだ。露天風呂には、人間以外に動物がいてもいいだろう。ペット可の露天風呂にしよう。犬でもウサギでも亀でもアルパカでもウェルカムだ。亀が温泉に入る横ですっぽん鍋をつつきながら、どっちがペットか混乱するのも乙な話だろう。すっぽんぽんですっぽんだ。それから、裸体のまま遊べるエリアも作ろう。裸体で興じる囲碁将棋、裸体で作る干し柿、裸体で熱唱する尾崎豊。露天風呂は地域の新しい居場所となり、どんどんその評判は広まり、「むしろ普段なんで服を着ているんだろうね?」という疑問が住民の間に生まれるかもしれない。露天風呂地域に住みたい、という人が増え、露天風呂内はどんどん豊かになっていく。マンションが建ち、スーパーや郵便局もある。もちろん、そこで働く人たちは皆裸体である。つまり、露天風呂内ですべてが完結する世界になるのだ! と、ここまで想像して、

「さすがに身体、冷えるか」

冷え性の田所恵は現実的に考えた。

やはり、露天風呂は、今くらいのサイズがちょうどよさそうだ。

イラスト うちやまはるな

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✍️書いた人

宮前じゃばら

作家・脚本家。長野県松本市在住。ザラザラしたものをつるつるに磨くことと、火焔型土器を眺めるのが好き。