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🍸[短編小説]もしもが気になる田所さん『田所さん、BARへ行く』

✍️ 宮前じゃばら

もしも度:🍸🍸

ある夜。
住宅街にひっそりとたたずむ店の前で、一人、佇んでいる女がいた。
看板には、BAR『檸檬』の文字が光っている。

よし。
覚悟を決めた田所恵は、息を止めて小さく一歩踏み出す。
そして、二歩目を踏み、三歩目を踏み、二歩下がってため息をつく。
だめだ、これじゃあ水前寺清子じゃないか。

「腕を振って足をあげて ワンツー、ワンツー!」

気合を入れるため、大声を出しながらその場で足踏みをしてみる田所恵。

ワン!

どこかの犬に吠えられた。そうだ、ここは住宅街なのだった。

何を隠そう、田所恵は、これまでの人生で、BARというものに行ったことがないのである。
いつも通らない道を通ったら、住宅街の中でBAR『檸檬』を見つけてしまった。
酒好きの田所恵、一度は行ってみたいと思いながら先送りにしていたBARデビュー戦だが、
その戦いを今夜この瞬間、と決めたのは、今朝見た占いで、みずがめ座のラッキーアイテムが“酸っぱい食べ物”だったから。ばったり出会ったのがBAR『梅干し』でも、今だと決めたに違いない。

扉が、自然と開いた。

「いらっしゃいませ」

マスターと思しき白いスーツを来た男性が、にこやかに出迎えてくれた。
つまり、賽は投げられた。

奥に見えるのは、6席ほどの小さなカウンター。
他に客はいないようだ。

「寒くなってきましたね」

マスターは田所恵をするすると店内へと促し、ハイチェアに案内をし、ほかほかのおしぼりを渡し、上着を預かった。なすがままにエスコートされる田所恵。

なんてスムーズなんだ……!と、感動を噛み締めながら、
このスムーズさに便乗しよう、と田所恵は決意した。
“BARが初体験である”ということを告げずに過ごしたい。

もしも、BAR巡りが趣味の30代だとしたら。

田所恵は理想の自分を憑依させる。
なんなら、この店も既にリサーチ済みで、オープンしたての頃に一回来たことある、という設定にしたっていい。化粧と髪型で印象は変わるのだから、マスターも全員の顔を覚えてはいないだろう。

とりあえず、

「マスター、髪切りました?」

ほかほかのタオルを頬にあてながら小首を傾げつつマスターに問う田所恵。
切り出しはオーソドックスなタモリ戦法である。
グラスを磨いていたマスターは、ぴくり、と田所恵を見て言った。

「実は、今朝、散髪に行ったとこで。分かりますか。」

まさかの切りたての髪だった。

「やっぱり」

田所恵は、意味ありげに笑ってみせる。出だしは好調だ。
おしぼりからはいい香り。店内には、サックスの響きが心地よいジャズが流れている。
これが、BARってやつか……感動に浸っていると、
ついにマスターからあの質問がやってきた。

「何、飲まれますか?」

ここで、マスターのおまかせを、ということもできるが、
田所恵はBARデビュー戦に備え、さっき店の前で「BAR/お洒落/通なカクテル」を検索済みだった。

田所恵は、少し低い声で、マスターに告げる。

「マタニティーで」

すこしの沈黙のあと、

「マティー二ですかね」マスターは、微笑んだ。

「ええ、もちろん」

田所恵も微笑んだ。危なかった。
マタニティーではなく、マティーニだったか。つい語感の雰囲気で喋ってしまった。
BARが初めてだとバレないように、田所恵はフォローを付け加えた。

「これ、越後湯沢でよく使うジョークなんです」

マスターは、奇怪な客に動揺することなく、
手際よく酒を注ぎ、混ぜ、シェイカーを振り、グラスに注ぐ。
一連の動きの美しさに、田所恵はすっかり見惚れてしまった。
BARというのは、鍛錬されたこの芸を鑑賞するための場所なのかもしれない。

「お待たせしました。こちら、マティーニです。」

真っ赤なコースターの上に差し出された華奢なグラス。
マティーニと差し出されたそのカクテルには、オリーブが浸してある。

田所恵は混乱する。

“マティーニ”というものは、この全体を指すのだろうか。あるいは、このオリーブを指すのだろうか? もしオリーブを“マティーニ”、と呼ぶとすると、このアルコールの液体は添え物で、オリーブがメインなのか? それならまず、どこから手をつけるべきだろうか。“マティーニ”と、“マタニティー”が似ていることを考えると、このアルコールは羊水を見立てていて、オリーブが赤子、刺しているピンは、へその緒を見立てているのかもしれない……なんてコンセプトが強いカクテルだ!そりゃ通が頼むやつだよ!

マティーニを前に混乱し、固まる田所恵に向かって一言、マスターは微笑みながら言った。

「飲み方、ご説明しましょうか?」

BARデビュー戦、KO負けである。

イラスト うちやまはるな

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✍️書いた人

宮前じゃばら

作家・脚本家。長野県松本市在住。ザラザラしたものをつるつるに磨くことと、火焔型土器を眺めるのが好き。