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「もしも、を考えることです。」
趣味はなんですか、と聞かれた時、田所恵はこう答える。
たいてい相手は戸惑い、3秒ほどの沈黙が生まれ、
「保険のお仕事をされてますか?」とか、
「最近気になりますよね、地震多くて」とか、
無理やり会話を繋げようと苦し紛れのパスを返してもらうことになるが、そのあとラリーが続くことはない。
田所恵のもしも人生がはじまったのは、小学4年生のときだった。
学校からの帰り道、飼い主とはぐれてしまったらしき犬に、家に帰るまでずっと追いかけまわされた。人懐っこい顔で舌を出しながら追いかけてくる犬は、田所恵にとって恐怖だった。泣きながら逃げ帰った翌日、登校前に玄関で靴ひもを結んでいた時、ふと、その犬のことが頭に浮かんだ。
「もしも、あの犬がわたしを待ち伏せしていたらどうしよう」
考え始めると、田所恵は学校どころではなくなった。
また追いかけられるかもしれない。
この玄関の扉をあけたら、あの犬がいるかもしれないのだ。
それから、お腹が痛いと嘘をついて、学校を休んだ。次の日もその次の日も同じように休み、さすがにずっとのままという訳にはいかないだろうと思い、3日目休んだ晩に、家を出るのが怖い理由を祖母にだけ打ち明けた。
「もしも、あの犬がまた追いかけてきたらって思うと、怖くて無理」
祖母は、犬う? と言いながらしばらく考えて、どこか違う部屋に行ってしまった。
しばらくして戻ってきて、
「これ持ってけ。もしも犬が来よったら、叩けばええ。」
そういいながら、田所恵に孫の手を渡した。
「備えあれば憂いなしや。」
次の日、田所恵は、孫の手をにぎりしめながら登校した。犬は来なかった。
学校には、これまでどおり通えるようになった。
備えあれば憂いなしや。
田所恵はこの時から、もしも、と何かがよぎったら、もしもから逃げるのではなく、もしもに立ち向かう選択をすることにした。23年経った今も、それは変わっていない。
田所恵の1DKのアパートの部屋には防音シートがはりめぐらされてある。
もしも、夜中にサッカーの試合に興奮して絶叫して、隣の住民から苦情が来たときのためだ。ちなみに、一度もサッカーの試合は観たことがない。ファンでもない。でも、いつ友達からサッカーの試合に誘われ、にわかファンを経て熱狂的なサッカーサポーターになる日が来るか分からない。念には念を。備えあれば、憂いなしなのだ。
置き配で荷物が届いていた。段ボールの中身を確認する。そうだ、一昨日注文した猫タワーだった。梱包を解いて組み立ててみると、思ったよりも大きい。もちろん、この家に猫はいない。もしも猫を拾ってきてしまったときのために買ったのだ。
うむ、うむ、と、田所恵は満足そうに窓際においた猫タワーを見上げた。もしも飼うことになった猫におはぎと名前をつけ、おはぎが猫タワーに登って、外を眺めるところを想像した。田所恵は猫タワーの猫部屋に小さくまるまって身体をねじ込んでみた。猫の気分はどんなだろう。もしも、このまま猫タワーで眠って、朝起きて私が猫になっていたらどうしよう。田所恵は自分が猫になってしまったときのご飯が気になった。
猫って魚介類だったらなんでも食べるのかな。冷蔵庫を確認すると、あさりのパックがあったので、あさりの酒蒸しを作ることにした。もしも猫になってしまったときのためのご飯を、先に作っておくのだ。酒のいい香りがキッチンに漂った。
そうだな、一応鳴き声も練習しておくか。
にゃーん。にゃおーん。にゃにゃーん。にゃーんにゃー。
あんまり鳴き声のバリエーションは思い浮かばなかった田所恵だが、あさりの酒蒸しは美味しそうにできあがった。頬を触ってみる。まだひげは生えていない。猫になったときのために作ったとはいえ、まだ田所恵は未猫であるが、このまま食べてしまうことにした。
テーブルにランチョンマットをしき、あさりの酒蒸しを皿に盛りつけ、ビールを一本冷蔵庫から取り出し、田所恵はハッとした。恋人が訪ねてきたときのために、あさりの酒蒸しはちょっと残しておいた方がいいだろう。あの人、いつも急に訪ねてくるから。
もしも、恋人がいたらの話だけど。
✍️書いた人
宮前じゃばら
作家・脚本家。長野県松本市在住。ザラザラしたものをつるつるに磨くことと、火焔型土器を眺めるのが好き。