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ぶっちゃけ最近ちょっと太りました。
体重計の数字を見て絶叫し、体重計に乗ったまま痩身マッサージの予約を入れたのは今朝のこと。朝から気分は最悪です。
初登場でいきなりこんな話題、お恥ずかしいです……。
僧侶でフリーアナウンサーの海野紀恵です。
今月からコラムを書かせていただきます。よろしくお願いいたします!
さて、冒頭の話に戻りますが、皆さんは自分の外見にコンプレックスを感じたことはありませんか?私は常に!いつも!!感じています。
アナウンサーという仕事柄、思わず二度見してしまう美女や超絶イケメン、糖質・脂質を過剰摂取しても一切太らなかったり、メイクを落とさずに寝ても陶器のようなツルツル肌を維持できる特殊体質の持ち主たちとたくさん出会ってきました。(努力もされていると思いますよ!)
一方、私はというと、ニキビ肌だし、食べすぎるとしっかり体型にあらわれるし、目は小さいし細いし、手足は短いし……。
よくアナウンサーやってるなと鏡の中の自分に語りかけてしまうくらい、コンプレックスしかありません。
もちろん、アナウンサーの仕事は外見がすべてではありません。
でも、さまざまな理由から、外見が大切な要素のひとつであることは否定できないのが現実。
自分自身を振り返ると、顔面はメイクで誤魔化し、ストイックにダイエットすることで、コンプレックス達と付き合ってきました。そして「やる気と根性」という、外見以外の面でなんとか戦ってきたアナウンサー人生です。
でも最近、そろそろ考え方を変えた方がいいのかも……と思うようになりました。
年齢を重ね、正直顔面も誤魔化しきれなくなってきました。〈根性〉で乗り切ってきたダイエットも、健康を考えると見直したほうが良いのかもしれません。
でもやっぱり少しでもキレイになりたい。コンプレックスを克服したい。
モヤモヤ……。そして気づきました。私は僧侶だ。このモヤモヤを解決するヒントが仏教にないのか?と。
ブッダ、衝撃のひとこと。
モヤモヤ考えている時にふと思い出した言葉があります。
この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない
……状況がわからなくても、衝撃的な一言ですよね。
これは、『講義ライブ!だから仏教は面白い』(魚川裕司/講談社α文庫)から抜粋させていただいた一節です。
『講義ライブ!だから仏教は面白い』は、著述・翻訳家の魚川裕司さんが講義形式で仏教を解説する仏教入門書。
この衝撃的な一言は、『スッタニパータ』という経典に登場するある場面で放たれたものです。旅をしながら教えを説いていたブッダ、実は超イケメンだったようなんです。ある日、その立派な姿を見たマーガンディアという男性がブッダに惚れ込み、うちの娘と結婚してほしいと思うようになりました。マーガンディアの娘さんも評判の美女で、マーガンディアはうちの娘は美人だから、きっとブッダも喜んで結婚してくれるだろうと自信満々で娘をブッダと引き合わせます。
そこで放たれたのが、「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえ触れたくない」という一言。『どんなに美しい人でも、皮一枚剥げば、ただ糞尿を蓄えている物体に過ぎないではないか』というのです。
このやりとりは、正確には異性との接触を断たなくてはならないという仏教の教えを示すものなのですが、ルッキズム(外見重視主義)を吹き飛ばすような一言にも受け取れないでしょうか?
「美しい」の正体
では、〈美しい〉という価値はどこからやってきて、糞尿に満ちた物体にくっつくのか。
仏教では「自分の心からやってくる」と考えます。
あの人は美しい。私は醜い。
この“美しい”とか“醜い”といった価値観は〈私のフィルター〉が決めています。
「私が美しいと思うから、その人は美しい。」
「私が醜いと思うから、私は醜い。」
つまり、この〈美しい〉とか〈醜い〉という価値観は絶対的なものでなく、ただ自分がそう思っているだけのことなのです。
ではでは、さらにもう一歩踏み込んで、この〈美しい〉や〈醜い〉というフィルターはどうやって出来上がったのかを考えてみると、シンプルに自分の〈好み〉かも知れませんし、『広瀬すずに似ている』といった、人気俳優やモデルなど具体的な対象を基準にしたものの場合もあります。また、私のモヤモヤのように『アナウンサーなら少しでもキレイでいた方がいい』という経験から出来上がったものというケースもあるでしょう。
でも、これもまた絶対的価値ではありませんよね。
〈美しい〉〈かわいい〉〈醜い〉。
どんな形容詞をつけたとしても、ただそこにあるのは糞尿を蓄えた物体なのですから。
仏教ではこのフィルターを煩悩と呼びます。
自分のフィルターで価値を決め、そこに執着すると、苦しみが生まれます。
『私のベスト体重は●kgだから、それ以上になってしまったら恥ずかしい。もう誰にも会いたくない。自分はダメなんだ……』
この場合、●kgという自分のフィルターによって決められた価値に執着して、どんどんどんどん明るい気持ちや仕事への意欲が失われていく……。結局自分の首を絞めているのは、自分なのです。
逆にいうと、このフィルターを取り払うことができれば、執着もなくなり、楽になります。だから仏教では煩悩(=フィルター)をなくそうと様々な修行に勤しむのです。
そうは言ってもですね……。
ただ、このフィルターを取り除くのって、めちゃくちゃ難しくないですか?
長年の経験や、世間の流行・風潮・常識が折り重なって自分のなかに出来上がるフィルターを手放すのは至難の技だと思います。
見方を変えると、このフィルターが励みや原動力になって、結果コンプレックスを乗り越えるという事態だったあり得るのです。
だから私は、『煩悩を絶対なくさなきゃ!』と考え過ぎないようにしています。
ここまで仏教エッセンスを取り入れても、スタイル良いですねとか、若く見えますねと言われたいですし……笑
仏教の考え方は、本当にその通りだと思います。だから、モヤモヤの渦に飲み込まれたら、仏教のみ教えを思い出すようにしています。グルグルの渦の中からピョーンと高台(仏教のみ教え)に飛び乗って、苦しむ自分を客観的に観察するんです。そして、中間地点を探ります。
『ダイエットしていいよ。でも、仕事に影響するほど疲れる運動はやめようね』とか『イライラして人に八つ当たりしそうになったら、甘いものはちょっとだけ解禁しようね』とか。
そうやって過ごしているうちに、自然と現状の自分を受け入れられるような気がするのです。
もしも、自分の外見に嫌気がさしたら。
一番気にしているのは、他の誰でもなく、自分。
なにが嫌?どこがコンプレックス?なんでそう思うの?と、自分のフィルターの存在を確認して、そのフィルターとほどほどに付き合ってみませんか?
……急に増えた体重。私は少しお酒を控えて、お風呂でのセルライト潰しマッサージにモヤモヤをぶつけようと思います。
✍️書いた人
海野 紀恵(うんの・きえ)
浄土真宗本願寺派僧侶・布教使・フリーアナウンサー。 仏教に限らず宗教全般に興味津々。 お酒・おしゃべり・京都が大好き。 SBCラジオ「Mixxxxxx +」(月・木・金)YBSラジオ「プチ鹿島のラジオ19××」出演中。